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第2話 二人の妻

作者: けもこ
last update publish date: 2026-07-20 11:17:55

紗英は、自分がどこにいるのか分からなくなった。そして、無意識に、左手の薬指に触れた。

雅人から贈られた、結婚指輪。二年前、教会で雅人がはめてくれたものだ。

雅人の妻は、自分のはずだ。

紗英の遠ざかっていた意識が、係員の「それでは順次、ご案内に従ってご焼香をお願い致します」という声で引き戻された。

いつの間にか親族の焼香が終わり、自分のいる場所のいくらか前方から、人の列が前の祭壇へと進んでいる。

人に沿うように、祭壇で焼香を済ませた後、紗英は流れに従って遺族の前、あの女性の前へ向かった。

ちょうど目の前に立って、紗英は軽く頭を下げたあと顔を上げ女性を見つめた。

「失礼します」

声をかけると、うつむいていた彼女が顔を上げた。

近くで見ると、整った顔の、いかにも上流家庭育ちというような女性だ。

泣き腫らした様子はなく、それでいて静かに悲しみを含む表情をしている。

「少し、お話をさせてください」

「今……ですか?」

彼女は、とまどいのようすで紗英を見つめ、声を返した。

遺族に挨拶をする人の列を、自分が止めていることは十分にわかっている。

こんな場でひどく目立っていることも。でも、今でなくてはならない。

「確認したいことがあるんです」

紗英は、喉の奥に詰まる息を押し込んだ。

「雅人さんとは、どういうご関係でしょうか」

澄香の眉が、わずかに寄った。

「どういう関係、と言われましても」

澄香は、隣に座る悠真の肩を抱いた。

「私は、雅人の妻です。この子は、雅人の息子です」

「違いますよね」

紗英は即座に否定した。考えるより先に声が出ていた。

「雅人さんの妻は、私です」

澄香の顔から表情が消えた。後ろの列の数人が、会話を聞いてざわついている。

悠真が不安そうに、母親の袖を握る。

「あなたが例の……」

「私のことを知っているんですか?」

澄香は、答えなかった。

横に立つ美津子が、険しい表情で静かに声を発する。

「紗英さん。場所をわきまえてちょうだい。とにかく、今日は帰って」

「お義母さま」

紗英は、振り返って、静かに美津子に聞いた。

「この方は、誰なんですか」

美津子は、目を伏せた。

「今、聞いたとおり。澄香さんは、雅人の妻で、悠真は、雅人の子です」

「そんな……どういうことなの? じゃあ、私は?」

紗英の声が、次第に大きくなった。

「私は雅人さんと結婚しました。婚姻届も出しました。お義母さまも知っているじゃないですか。雅人さんが――」

「紗英さん」

美津子が、周囲のようすを気にしながら、抑えた声で遮った。

「雅人に、何を聞かされていたのか知らないけれど、今はそんな話をする場じゃないわ」

紗英は、動けなくなった。

何を聞かされていたか?

妻だと聞かされていた。君を愛していると。

ひと時も離れたくないと。

必ず妻として父親に紹介すると。

帰ってきたらすべてを公表すると。

その全部を、雅人の言葉で、確かに聞いた。

「だって……だって私はちゃんと……」

まるでその証拠を自分で確認するように、紗英は左手を上げそれを見つめた。

薬指の指輪が、照明の下で淡く光る。

「これは、雅人さんから贈られた結婚指輪です」

澄香の視線が、指輪に落ちた。その顔から、血の気が引いていく。

澄香はゆっくりと、自分の左手を持ち上げた。

薬指には、紗英のものとまったく同じ指輪がはめられていた。

細いプラチナの波打つリボンのようなデザインの指輪。

中央に埋め込まれた、小さなダイヤモンド。

そして、それと対になる少し幅のある指輪が、雅人の棺の上に遺品として置かれている。

「嘘……」

紗英は、澄香の手を見つめた。

澄香は、震える指で、自分の指輪を外した。

そして、内側に刻まれた文字を紗英へ向ける。

『M to S』

紗英は、自分の指輪を外そうとした。

だが、指がむくんでいるのか、何度引いても抜けない。

「あ……私の指輪にも、同じ文字が刻まれています」

声が掠れた。

「雅人から、紗英へという……」

澄香の瞳が揺れる。

そこに浮かんでいたのは、怒りでも、憎しみでもない。

紗英と同じ困惑だった。

「あなたは」

澄香が静かに言った。

「雅人に、妻だと言われていたのですね」

その言葉を聞いた瞬間、紗英の中で、愛する夫の姿が大きく歪み崩れた。

紗英は、あまりのことに言葉を失い、呆然自失に陥った。

そして、係の人に促されて、葬儀場の外へと追いやられた。

指輪を何度も引っ張ったせいで、左手の薬指が赤く腫れている。

それでも、細いプラチナの輪は、皮膚に食い込むようにそこに留まり続け、まるで、雅人との結婚を自分の代わりに主張してくれているようだった。

「ちょっと待ってください」

背後から呼び止められ、紗英は足を止めた。

振り返ると、澄香が一人で立っていた。

先ほどまで隣にいた悠真の姿はない。おそらく、親族の誰かに預けてきたのだろう。

近くで見る澄香は、式場で見たときよりも顔色が悪かった。

「少しだけ、お話しできますか」

紗英は声を発しなかった。

目の前の女性は、雅人の妻だという。

しかも、雅人との間に子どもまでいる。

嘘だと思いたかった。

けれど、義母や周囲の態度、そして澄香の薬指にある紗英のものと同じ指輪が、それを許さなかった。

「あなたは、いつ雅人と結婚したのですか」

先に尋ねたのは、澄香だった。

「二年前です」

間をおいて、紗英は、掠れた声で答えた。

「海外のチャペルで式を挙げました。そのあと、婚姻届も出しています」

「二年前……」

澄香の唇が、わずかに震えた。

「私は、雅人と九年前に結婚しました。悠真が生まれたのは、その翌年です」

九年前。

紗英が雅人と出会ったときには、雅人はすでに結婚していた。妻も、子どももいた。

「そんな……」

紗英は首を振った。

「何かの間違いだわ」

「あなたは……何か勘違いをしてるのでは?」

「勘違い?ありえない。私は、確かに雅人さんと婚姻届を書きました。受領証もちゃんと……」

言いながら、紗英は気づいた。

婚姻届を提出したのは、雅人だった。

公的な名義変更も、保険や銀行の手続きも、すべて彼が進めてくれた。

『仕事では水城のままでいた方がいい』

フラワーデザイナーとしてフリーで働くなら、名前が通っている水城紗英のまま、仕事上の名前は残した方がいい。

そんな彼のアドバイスに紗英も納得した。

だから、仕事の上は、水城紗英と名乗り、署名している。

それでも、宅配便の受け取りやホテルの宿泊者名簿、個人的な手紙には、高槻紗英と書いた。

雅人と夫婦なのだからと、乙女ぶったこだわりだった。

「澄香さん」

黙り込んだ二人の空気を割くように、美津子の厳しい声が響いた。

二人のもとへ歩いてきた美津子は、澄香に咎めるような視線を投げる。

「参列者へのご挨拶があるでしょう」

「ですが、お義母さま。この方は――」

「その話は、あとにして頂戴」

美津子は、澄香の言葉を遮ると、紗英へ視線を移した。

その目には、一瞬、憐れみが浮かんだかのように見えた。

だが、すぐにそれは消え、冷たい表情に戻る。

「紗英さん。今日はもう帰って頂戴」

「お義母さまは、私と雅人さんが一緒に暮らしていたことをご存じじゃないですか」

紗英の縋るような言葉に、美津子の顔が強張った。

「結婚のご挨拶の時も、その後も、雅人さんと一緒にお会いしました。そのとき、雅人さんは私のことを妻だと――」

「あの子があなたを連れてきたことは覚えています

「じゃあ、私が雅人さんの妻だと――」

「私は認めていません」

美津子は、冷たく言い切った。

「そんな、だって、私たちは結婚の報告に伺って…」

「そう思っているのは、あなただけだったのではないの?」

紗英の体が強張り、ひゅっと喉の奥で息が詰まる。

「どういう意味ですか」

美津子は答えなかった。

その沈黙が、何より雄弁に事実を語っているように感じた。

「とにかく、今は雅人を静かに送らせて頂戴。そのくらいの常識はあるでしょう」

美津子はそれだけ告げると、澄香を連れて式場へ戻っていった。

一人残された紗英は、しばらく動くことができなかった。

扉の向こうから、参列者に挨拶をする声が聞こえてくる。

自分の身に起こっていることが信じられなかった。

雅人を......雅人を見送らないと。

そう思って、葬儀場の方を振り返る。

大きく開いた扉の向こうで、背の高い鋭い目つきの男性がこちらを見つめていた。

その視線の厳しさに、紗英は、逃げるように葬儀場を出た。

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