登入紗英は、自分がどこにいるのか分からなくなった。そして、無意識に、左手の薬指に触れた。
雅人から贈られた、結婚指輪。二年前、教会で雅人がはめてくれたものだ。 雅人の妻は、自分のはずだ。 紗英の遠ざかっていた意識が、係員の「それでは順次、ご案内に従ってご焼香をお願い致します」という声で引き戻された。 いつの間にか親族の焼香が終わり、自分のいる場所のいくらか前方から、人の列が前の祭壇へと進んでいる。 人に沿うように、祭壇で焼香を済ませた後、紗英は流れに従って遺族の前、あの女性の前へ向かった。 ちょうど目の前に立って、紗英は軽く頭を下げたあと顔を上げ女性を見つめた。 「失礼します」 声をかけると、うつむいていた彼女が顔を上げた。 近くで見ると、整った顔の、いかにも上流家庭育ちというような女性だ。 泣き腫らした様子はなく、それでいて静かに悲しみを含む表情をしている。 「少し、お話をさせてください」 「今……ですか?」 彼女は、とまどいのようすで紗英を見つめ、声を返した。 遺族に挨拶をする人の列を、自分が止めていることは十分にわかっている。 こんな場でひどく目立っていることも。でも、今でなくてはならない。 「確認したいことがあるんです」 紗英は、喉の奥に詰まる息を押し込んだ。 「雅人さんとは、どういうご関係でしょうか」 澄香の眉が、わずかに寄った。 「どういう関係、と言われましても」 澄香は、隣に座る悠真の肩を抱いた。 「私は、雅人の妻です。この子は、雅人の息子です」 「違いますよね」 紗英は即座に否定した。考えるより先に声が出ていた。 「雅人さんの妻は、私です」 澄香の顔から表情が消えた。後ろの列の数人が、会話を聞いてざわついている。 悠真が不安そうに、母親の袖を握る。 「あなたが例の……」 「私のことを知っているんですか?」 澄香は、答えなかった。 横に立つ美津子が、険しい表情で静かに声を発する。 「紗英さん。場所をわきまえてちょうだい。とにかく、今日は帰って」 「お義母さま」 紗英は、振り返って、静かに美津子に聞いた。 「この方は、誰なんですか」 美津子は、目を伏せた。 「今、聞いたとおり。澄香さんは、雅人の妻で、悠真は、雅人の子です」 「そんな……どういうことなの? じゃあ、私は?」 紗英の声が、次第に大きくなった。 「私は雅人さんと結婚しました。婚姻届も出しました。お義母さまも知っているじゃないですか。雅人さんが――」 「紗英さん」 美津子が、周囲のようすを気にしながら、抑えた声で遮った。 「雅人に、何を聞かされていたのか知らないけれど、今はそんな話をする場じゃないわ」 紗英は、動けなくなった。 何を聞かされていたか? 妻だと聞かされていた。君を愛していると。 ひと時も離れたくないと。 必ず妻として父親に紹介すると。 帰ってきたらすべてを公表すると。 その全部を、雅人の言葉で、確かに聞いた。 「だって……だって私はちゃんと……」 まるでその証拠を自分で確認するように、紗英は左手を上げそれを見つめた。 薬指の指輪が、照明の下で淡く光る。 「これは、雅人さんから贈られた結婚指輪です」 澄香の視線が、指輪に落ちた。その顔から、血の気が引いていく。 澄香はゆっくりと、自分の左手を持ち上げた。 薬指には、紗英のものとまったく同じ指輪がはめられていた。 細いプラチナの波打つリボンのようなデザインの指輪。 中央に埋め込まれた、小さなダイヤモンド。 そして、それと対になる少し幅のある指輪が、雅人の棺の上に遺品として置かれている。 「嘘……」 紗英は、澄香の手を見つめた。 澄香は、震える指で、自分の指輪を外した。 そして、内側に刻まれた文字を紗英へ向ける。 『M to S』 紗英は、自分の指輪を外そうとした。 だが、指がむくんでいるのか、何度引いても抜けない。 「あ……私の指輪にも、同じ文字が刻まれています」 声が掠れた。 「雅人から、紗英へという……」 澄香の瞳が揺れる。 そこに浮かんでいたのは、怒りでも、憎しみでもない。 紗英と同じ困惑だった。 「あなたは」 澄香が静かに言った。 「雅人に、妻だと言われていたのですね」 その言葉を聞いた瞬間、紗英の中で、愛する夫の姿が大きく歪み崩れた。紗英は、あまりのことに言葉を失い、呆然自失に陥った。
そして、係の人に促されて、葬儀場の外へと追いやられた。
指輪を何度も引っ張ったせいで、左手の薬指が赤く腫れている。 それでも、細いプラチナの輪は、皮膚に食い込むようにそこに留まり続け、まるで、雅人との結婚を自分の代わりに主張してくれているようだった。 「ちょっと待ってください」 背後から呼び止められ、紗英は足を止めた。 振り返ると、澄香が一人で立っていた。 先ほどまで隣にいた悠真の姿はない。おそらく、親族の誰かに預けてきたのだろう。 近くで見る澄香は、式場で見たときよりも顔色が悪かった。 「少しだけ、お話しできますか」 紗英は声を発しなかった。 目の前の女性は、雅人の妻だという。 しかも、雅人との間に子どもまでいる。 嘘だと思いたかった。 けれど、義母や周囲の態度、そして澄香の薬指にある紗英のものと同じ指輪が、それを許さなかった。 「あなたは、いつ雅人と結婚したのですか」 先に尋ねたのは、澄香だった。 「二年前です」 間をおいて、紗英は、掠れた声で答えた。 「海外のチャペルで式を挙げました。そのあと、婚姻届も出しています」 「二年前……」 澄香の唇が、わずかに震えた。 「私は、雅人と九年前に結婚しました。悠真が生まれたのは、その翌年です」 九年前。 紗英が雅人と出会ったときには、雅人はすでに結婚していた。妻も、子どももいた。 「そんな……」 紗英は首を振った。 「何かの間違いだわ」 「あなたは……何か勘違いをしてるのでは?」 「勘違い?ありえない。私は、確かに雅人さんと婚姻届を書きました。受領証もちゃんと……」 言いながら、紗英は気づいた。 婚姻届を提出したのは、雅人だった。 公的な名義変更も、保険や銀行の手続きも、すべて彼が進めてくれた。 『仕事では水城のままでいた方がいい』 フラワーデザイナーとしてフリーで働くなら、名前が通っている水城紗英のまま、仕事上の名前は残した方がいい。 そんな彼のアドバイスに紗英も納得した。 だから、仕事の上は、水城紗英と名乗り、署名している。 それでも、宅配便の受け取りやホテルの宿泊者名簿、個人的な手紙には、高槻紗英と書いた。 雅人と夫婦なのだからと、乙女ぶったこだわりだった。 「澄香さん」 黙り込んだ二人の空気を割くように、美津子の厳しい声が響いた。 二人のもとへ歩いてきた美津子は、澄香に咎めるような視線を投げる。 「参列者へのご挨拶があるでしょう」 「ですが、お義母さま。この方は――」 「その話は、あとにして頂戴」 美津子は、澄香の言葉を遮ると、紗英へ視線を移した。 その目には、一瞬、憐れみが浮かんだかのように見えた。 だが、すぐにそれは消え、冷たい表情に戻る。 「紗英さん。今日はもう帰って頂戴」 「お義母さまは、私と雅人さんが一緒に暮らしていたことをご存じじゃないですか」 紗英の縋るような言葉に、美津子の顔が強張った。 「結婚のご挨拶の時も、その後も、雅人さんと一緒にお会いしました。そのとき、雅人さんは私のことを妻だと――」 「あの子があなたを連れてきたことは覚えています 「じゃあ、私が雅人さんの妻だと――」 「私は認めていません」 美津子は、冷たく言い切った。 「そんな、だって、私たちは結婚の報告に伺って…」 「そう思っているのは、あなただけだったのではないの?」 紗英の体が強張り、ひゅっと喉の奥で息が詰まる。 「どういう意味ですか」 美津子は答えなかった。 その沈黙が、何より雄弁に事実を語っているように感じた。 「とにかく、今は雅人を静かに送らせて頂戴。そのくらいの常識はあるでしょう」 美津子はそれだけ告げると、澄香を連れて式場へ戻っていった。一人残された紗英は、しばらく動くことができなかった。
扉の向こうから、参列者に挨拶をする声が聞こえてくる。 自分の身に起こっていることが信じられなかった。 雅人を......雅人を見送らないと。 そう思って、葬儀場の方を振り返る。 大きく開いた扉の向こうで、背の高い鋭い目つきの男性がこちらを見つめていた。 その視線の厳しさに、紗英は、逃げるように葬儀場を出た。帰宅すると、入れ違いにハウスキーパーの田所がちょうどエプロンを外し、仕事を終えて帰ろうとしていた。「お帰りなさいませ。今日はお仕事、いかがでしたか?」「ええ。順調でした」「それはよろしゅうございました。お仕事に出られるようになってから、表情が明るくなられましたもの」田所の言葉に、紗英は小さく笑った。実際、仕事は順調だった。担当者とも打ち解け、デザイン案も少しずつ形になっている。それなのに、どうしてこんなに気持ちが重いのだろう。――弟から兄だなんて。三枝の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。考えたことがなかったわけではない。世間からどう見られるかも、怜司にどれほど迷惑をかけているかも、自分なりに理解しているつもりだった。ただ、面と向かって言われると、何一つ反論できず、言われた言葉は自分の中で反芻されるばかりだった。雅人を愛していた。結婚していると信じ、二年間、妻として暮らしていた。その雅人が亡くなり、今は怜司の妻になっている。しかも最近は、怜司の帰りを待つことさえ楽しみになっていた。契約で始まった結婚なのに。そんな自分が、少し怖かった。玄関の扉が開く音がした。「ただいま」いつもより早い怜司の帰宅だった。「おかえりなさい」紗英は立ち上がり、笑顔を作った。「今日は仕事、どうでした?」「順調でした。試作も、担当の方に気に入っていただけたんです」「それはよかった」怜司は微笑んだが、すぐに紗英の顔を覗き込んだ。「……何かありましたか?」「え?」「少し疲れているように見える」紗英は慌てて首を振った。「今日はずっと立って作業をしていたので、そのせいだと思います」「そうですか。あまり無理はしないでくださいね」そう言って、怜司はネクタイを緩めた。
ホテルのロビーに、色とりどりの花が並べられていた。「こちらの花器でしたら、もう少し枝物を減らした方が、奥のソファからも見通しがよくなると思います」紗英が提案すると、ホテルの担当者が頷いた。「確かに。正面からだと華やかなんですけど、横から見ると少し大きいですね」「そうなんです。待ち合わせに利用されるお客様もいらっしゃいますから、視界を遮らない方がいいと思って」紗英は、用意していた花材を少し入れ替えた。今日は、最初に提出したデザイン案をもとに、実際の花器を使った試作を行っている。何度か打ち合わせを重ねるうちに、ホテルの担当者とも気軽に意見を交わせるようになっていた。「やっぱり現場で見てもらうと違いますね」「ありがとうございます。実際に置いてみないとわからないことも多いですから」「この前のラウンジの案も、責任者がすごく気に入ってました。次の打ち合わせもよろしくお願いしますね」「こちらこそ、よろしくお願いします」自然と笑顔になった。仕事を失ったときには、もう二度とこんなふうに花に触れられないかもしれないと思った。それが今は、ホテルの担当者と意見を交わしながら、一つの空間を作り上げている。積み上げてきた実績も仕事も、一度は失ったからこそ、改めて思う。やっぱり、私はこの仕事が好きだ。花で空間を彩り、そこで過ごす誰かの時間をよりよいものにする。そんな仕事を、また始められたことが嬉しかった。◇◇◇作業を終え、紗英が資料を片づけていると、背後から声をかけられた。「水城紗英さん、ですよね?」振り返ると、見覚えのない女性が立っていた。四十歳前後だろうか。きっちりとまとめた髪に、上品な紺色のスーツがよく似合っている。「あ、はい。そうですが」「私、三枝理香と申します。本社の営業企画部におります」差し出された名刺を受け取ると、女性は穏やかな笑みを浮かべた。「以前は
「澄香さん。あなた、ずいぶん上手く仕事をこなしているそうじゃない」澄香は、ダイニングの扉から入ってきた美津子の姿に、驚く。彼女が、夕食の席にやってくることなど、ほとんどない。「はい。皆さまのお気遣いもあって快適にお仕事をさせていただいています」「悠真のためにも、あなたが会社で認められておくのはいいことよ」美津子は、ダイニングテーブルで食事をしている、悠真の方に視線を走らせる。「あなたの仕事については、黒瀬さんがしっかりサポートをしてくださるそうよ。悠真が将来会社に関わるときのためにも、今のうちから内情を知っておくのは良いことだわ」澄香は黙って頷いた。さっきまで、食事をしながら、楽しそうに友達の話をしていた悠真は、美津子の姿にすっかり黙り込んでしまった。「それより、怜司さんがあの女のせいで、会社を引っ掻きまわしているみたいよ」「……そうなのですか?」「雅人が築いた取引関係まで疑うようなことをしているそうだわ。まったく、何を考えているのかしら」澄香は、先日黒瀬から聞いた話を思い出した。「まったく。怜司さんもあんな女に振り回されて。目も当てられないわね。育ちが悪いったら――」「お母さま。悠真の前ですから」澄香は、慌てて美津子の話を遮った。「ああ。そうね。悠真。早く自分の部屋で勉強しなさい」悠真は、いつものように小さく「はい」と返事をすると、ダイニングを後にしようとする。「悠真。あとでお部屋にデザートを持って行ってあげるわ」そう声をかけると、悠真は嬉しそうに頷いて階段を上がっていった。美津子は、リビングへ移り、ソファに腰を掛けた。澄香はそこへコーヒーを運んだ。「黒瀬さんがね、怜司さんが過去の契約まで調べ始めたせいで、昔からの取引先にまで迷惑がかかっているって言っていたわ」美津子は、コーヒーを飲みながら、澄香に手で向かい側に座るように促した。「引っ掻き回されているっ
黒瀬は、机の上に置いた資料を忌々しげに睨んでいた。系列ホテルの過去の装花契約について、追加資料の提出を求められている。最初は副社長の妻との直接契約を問題にしていたはずなのに、いつの間にか調査の範囲が広がっていた。「なぜ、こんな昔の案件まで調べる必要があるんだ」向かいに立つ部下は、答えに困ったように視線を落とした。「経理からの依頼です。今回の契約との比較資料にするそうで、系列ホテルで共通する取引先についても確認するようにと」「比較なら、過去一年分で十分だろう」「それが、雅人専務の時代まで遡るようにという話でして。新しく契約されたフラワーデザイナーの信用問題に関係するということだそうで……」黒瀬は、思わず舌打ちをしそうになった。新しいフラワーデザイナーとは、雅人の愛人で、今は副社長の妻となった女のことだ。――まったく忌々しいあの女は、雅人の死によって、妻の座も、仕事も、家もすべてを奪われて、消えてしまう予定だった。それがどうしてこんなことになったのか。――金づるだった雅人が死んだら、その兄に鞍替えとは。まったく強かな女だ高槻の家で出会った時には、しおらしくして扱いやすそうに見えたが、結局、あのあと、女から連絡は来なかった。副社長側にすっかり取り込まれたようだ。――遡って、契約を洗い出すなどその中には、今さら掘り返されては困るものがいくつもある。「具体的には、どこまで調べているんだ?」「系列ホテルのうち、雅人専務が直接関わられた案件を中心に、契約書と請求書、それから納品記録の照合を進めているそうです」「納品記録まで?」黒瀬は思わず顔を上げた。「はい。特に海外から調達した花材については、仕入れ先や搬入記録まで確認するようにと」「……ずいぶん細かいことをするんだな」黒瀬は、苛立ちを隠せなかった。「わかった。こちらでも確認しておく。資料は勝手に提出するな」部下が退出すると、黒瀬は携帯電話を取り出した。連絡先を開き、しばらく指を止める。そして、一件の番号を選んだ。「……私だ。少し確認したいことがある」電話の相手は、雅人と取引のあった業者の責任者だった。「過去の請求書について問い合わせが来ていないか?」『ええ。ホテル側から、納品記録を確認したいと連絡がありましたが』「何と答えた?」『古い案件ですから、資料を探して
夕食を終えたあと、怜司が珍しくノートパソコンを持ってリビングへやってきた。「紗英。少し仕事のことで相談したいんだけど、いいかな?」名前で呼ぶようになってから、怜司の接し方は少しくだけたものに変化していた。その距離感に紗英は、まだ少し照れがある。「はい。私でよければ」隣のソファに腰を下ろした怜司が、パソコンを開く。「澄香さんからの話は聞きました。黒瀬が接触してきたそうですね」「はい。澄香さんには、あまり無理をしないでほしいんですけど……」「そうですね。高槻に家にいると、彼女の周囲に味方は少ないでしょうから。せいぜい、黒瀬に話を合わせておく程度で、深入りしないように彼女に伝えてください」怜司はそう言って、画面を紗英の方へ向けた。「実は、過去の装花契約について調べているんですが、気になるものがあるんです」表示されていたのは、請求書をまとめた資料だった。「これは……ホテルの装花費用ですか?」「雅人が関わっていた件です。契約上、かなり高額な花材が納品されたことになっているんですが、実際の納品記録と一致しない」紗英は画面を覗き込んだ。ホテル名、施工時期、花材の種類、数量。馴染みのある項目が並んでいる。「少し見せていただいてもいいですか?」「もちろん」そう言うと、怜司は、身体を寄せて見えやすいようにPCを紗英の前に出した。紗英はパソコンを自分の方へ引き寄せ、請求明細を読み始めた。「……あれ?」最初に気になったのは、花材の数量だった。「このホテル、改装前のロビーですよね?」「そうです。今から二年ほど前の案件ですね」「私、ここに行ったことがあります。以前、装花の打ち合わせで伺ったんです」紗英は、記憶の中のロビーを思い浮かべた。広い吹き抜けが特徴的なホテルだったが、正面には
黒瀬の背中を見送りながら、澄香は小さく息を吐いた。彼は、こんな陳腐な芝居でも、こちらが素直に信じると思っているのだろう。今までの自分なら、そうだったかもしれない。誰かがこうしろ、と命令すれば、そのとおりにしていたはずだ。しかし、今は違う。少なくとも、悠真のこれからについては、自分が慎重に考え、絶対に周囲に流されることのないようにしないといけない。澄香は、携帯電話を取り出し、さきほどの黒瀬とのやりとりについて、紗英にメッセージを送った。ほどなくして返事が届いた。『あまり無理をして、そちら側を探らなくてもいいですからね。危ない目に合わないようにしてください』澄香は、少し考えてから返信した。『大丈夫です。私、演技は上手いんですよ』すぐに返事が返ってくる。『澄香さんに何かあったら、大変ですから。くれぐれも注意してください。この件は怜司さんにも伝えておきます』返事のスタンプを送り終えると、澄香はもう一度、仕事の資料を手に取った。◇◇◇「黒瀬が、澄香さんに?」佐伯の報告を受け、怜司は眉を上げた。「はい。インテリアデザイン部門で、しばらくお話しされていたそうです」「なるほどな。澄香さんなら、簡単に言いくるめられると思ったわけか」怜司は口元を緩めた。黒瀬が澄香を利用し、紗英との対立構造を作り、怜司の評判にも傷をつけようとしていることは容易に想像できた。ただ、黒瀬は知らない。澄香と紗英が、すでに互いを信頼していることを。「それから、副社長。過去の装花契約について、追加の報告がございます」佐伯は別の資料を机に置いた。「黒瀬部長が承認していた案件のうち、ホテル側の納品記録と請求内容が一致しないものが、ほかにも見つかりました」「同じ取引先か?」「はい。複数の系列ホテルで利用されています。現在確認できたものだけで、請求額は約八千万円になります」怜







